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『一大事は今日只今の心なり(いちだいじはきょうただいまのこころなり)

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【滅びの呪文】 バルス ‼️ と言えば ラピュタの滅びの呪文ですね。 人類にも滅びの呪文があるのだそうです。 それは 「めんどくさい」と言う言葉だと聞きました。 なるほど、確かに何でも、「めんどくさい」と思ったら良い結果に繋がりません。 「めんどくさい」ものは、本来やりたくないんです。 でもやらなきゃならないもの … イヤイヤやって良い結果が出ることはあまりないですね。 禅の言葉に 『一大事は今日只今の心なり』(いちだいじはきょうただいまのこころなり) という言葉があります。 「大事なのは、今目の前の事だよ」って事です。今目の前で起きる事の積み重ねが人生、だから今目の前の事に一生懸命にならなきゃ未来は無い」 今やらなければならないことを「めんどくさい」と言って、あれやこれやと考えて、時間を無駄に浪費してはならない 目の前のこと、「めんどくさい」と考える前にすぐ手をつける。 そしたら、めんどくさいことなんて無くなるもんです。 手をつけないと、余計にめんどくさいんだから(笑)

『至道難しきことなし 唯だ揀擇を嫌う』 (しどうむずかしきことなし ただけんじゃくをきらう)

【自分らしく生きる】 昔むかしの若い頃は 自分らしさとか、個性とかを求めていた 自分らしい選択 自分らしい働き方 自分らしい考え方 でも本当は何をもって「自分らしい」と言うのか?それすら分からなかったのに(笑) だけど、人生も少し長く続けて行くと 自然と「自分らしく」なるもので 今では、なんとなく 「自分らしく仕事をして」 「自分らしく人と付き合って」 「自分らしく生きている」気がします。 それは、もしかしたら、無い物ねだりをしなくなったからかもしれません。 無い物ねだりをしないと、今の自分が持っているものに目を向けることになる。 自分が持っているものを知れば、それを活かす事は、そんなに難しい事じゃない。 禅の言葉に 『至道難しきことなし 唯だ揀擇を嫌う』 (しどうむずかしきことなし ただけんじゃくをきらう) 至道とは、悟りに達する道 揀擇とは、選り好みすることだそうです。 悟りの道は難しいことは無いのだけど、選り好みしだすと、難しいことばかりになるという事 人は、選り好みする程いろんなものをもっていないけど選り好みする。 それが「無い物ねだりだ」 今ある物に目を向けて、感謝すると、その活かし方が分かるのではないだろうか? 僕はまだ全然できてないけど(笑) でも少なくとも「自分らしく」はできるようになってきた気がする。

『結果自然成』(けっかじねんになる)

去年から取り組んでいるいくつかのことを 今年は形にするべく 思い切って動いています。 でも時折「本当にできるのか?」なんて 自問自答してたりして … そうすると、動きも鈍るものです。 何考えてるんだか? 我ながら情けない(笑) 禅の言葉に 『結果自然成』(けっかじねんになる) というのがあります。 意味はそのまま 「やるだけやれば、やっただけの結果が得られる」 「だから、心配しなくてもいい、進めば結果はそこにある」という事 考えるより行動が大事! 身にしみる~~

『鉄樹花開二月春』てつじゅはなひらくにがつのはる

忘れられない言葉 もう 15 年程前の話です。 新社会人になった時にお世話になった専門商社での話です。 若手を集めて勉強会を開催しました。 それが何故か会社で注目を浴びて、協力していただける人が増えたころ ある上場企業の役員の方に、オブザーバーとして勉強会に参加していただきました。 その方は創業後、まだ間もない会社を今では 3000 億企業にまで育てた方でした。 その方は勉強会を立ち上げた僕に、こんな言葉を贈ってくださいました。 『 5 年という歳月は困難を可能にし 10 年という歳月は不可能を可能にする』 今でも何かを始める時はこの言葉を思い出します。 禅の言葉に 『鉄樹花開二月春』てつじゅはなひらくにがつのはる 鉄樹とは、生命力を失った古木のこと。そんな古木でも厳しい冬を越えた後に花を咲かせると言う意味だそうです。 どんなに無理に思えたとしても、正しい努力を続ければ実現する。 実現可能な事だけをやると決めて計画する。 それも良い でも、たくさんの人が不可能と思った事を可能にする方がワクワクする。 今は、誰も理解してくれなくも良い そもそも理解される事が目的じゃないでしょ 自分だけが目指すものがあるなら ワガママにやれば良い 10 年あれば間に合うから

『長者長法身、短者短法身』(ちょうじゃちょうほっしん、たんじゃたんほっしん)

「人の倍働いて、人の倍の成績を出して、人の倍給料をもらってるようじゃ、ダメなんじゃない?」 衝撃でした 勤め人の頃、営業成績トップを取ったときに、当時の部長から言われた言葉です。 僕はてっきり褒められると思ってたときにこの言葉(笑) 確かに人の倍働いて、やっと人の倍の成績だと、すぐ限界がきます。 そう考えると部長の言葉ももっとです。 世の中には人と同じだけの仕事で、人の 3 倍以上の成績を出すスーパースターもいます。 今でも、そんなスーパースターの仕事のやり方をセミナーで学んできて、僕に教えてくれる友人がいます。 「こんな風にして仕事するんだって」って感じです。 すごいなぁ~とは思います。 でも自分で同じ事をしようとは思いません。 成績を上げる事が僕の人生の目的ではないし スーパースターに憧れもありません 禅の言葉に 『長者長法身、短者短法身』(ちょうじゃちょうほっしん、たんじゃたんほっしん) があります。 この言葉は、桜には桜の良さがあり、菊には菊の良さがあるという事を教えてくれます。 それぞれに個性がありますよね。 それに反して、桜の花びらを菊のように沢山の花びらにさせる事は出来ないし、菊の花に桜の木に咲けと言っても出来ない。 桜も菊も全く違う花だけど、それぞれに個性がある花を咲かしていてそれで良い 人も同じで、特徴(個性)があるから、魅力的なわけです。 それを無視して、桜に菊の真似をさせる事は出来ないし、その逆も然り 自分にあった自分らしい仕事のやり方で良いんだと思います。 も~とも~と特別な 🎶 オーンリーイワーン

『汝十二時に使われる 老僧は十二時を使い得たり』

いつも慌ただしくているのに、人にものを頼まれると引き受けちゃう 時間が空いていればスケジュールを入れてしまう 準備の時間や、自分の体や心を休める時間を勘定に入れずに頑張ってしまう そして、ストレス解消とばかりに、お酒を呑んだり、だらだらしたりしてしまう たまにはいいんでしょうけどね … 禅の言葉にこんな言葉があります。 『汝 十二時に 使われる 老僧は 十二時 を使い得たり』 唐時代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)と言う禅師の言葉です。 「時間に追われるような生き方をしてはいけない、時間を管理する事が大切だ」 と言う意味です。 時間に追われる。 これを『忙しい』と言います。 忙しいとは、立心偏に亡くす。 「心を亡くす」 時間を人生の一部だとすると なんとも味気ない 頑張ってる姿は美しい だけど頑張らなくてはいけないのは 自分が未熟だからだと反省します。 『自分を律する』のは難しい

『冷暖自知』(れいだんじち)

最近はインターネットが便利で、何でも検索してしまいます。 そして何となく知識がついていたりします。 でも、その知識がしばしば邪魔になります。 それは、知っているが為に、行動しない 『どうせそんな事しても、こうこうなって、こうなるだけだろ』 『じゃ~やめとくか』 なんてね。 禅の言葉にこんな言葉があります。 『冷暖自知』れいだんじち 雪がどのくらい冷たいのかは、自分で触ってみないと分からないという意味です。 自分で経験をして、得られる情報は、全く違う世界を見せてくれる事があります。 時には自分の知識を疑ってみる事も必要なのかもしれません。

『窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず』(きゅうすればすなわちへんじ、へんずれば、すなわちつうず)

人が成長する時って 『ピンチ』を乗り越えた時です。 失敗して⇨自分でピンチを招く 自分以外の理由でピンチを招く事もある 禅の言葉に 『窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず』きゅうすればすなわちへんじ、へんずれば、すなわちつうず と言う言葉が有ります。 困難な壁にぶつかれば、本気で考える 本気で考えれば、その困難は乗り越えられる そう教えてくれます。 『ピンチは、成長のチャンス』 今日も素敵な 1 日を …

『知足』(ちそく)

人はついつい、『あれもこれも」と欲が出ます。 本当は、もう足りているのに『もっともっと』と…… でも、求めれば求めるほど、満たされない それが良いとか悪いとかと言うことではなく 「ただ満たされることはない」 禅の言葉に 『知足』(ちそく)というものがあります。 足ることを知る者は、たとえ貧困であっても、ゆったりとして安らかですが、足ることを知らない者は、富裕であっても、心が貪欲に満ちて不安定な状態にあるという意味。 それは心もそうだと思います。 心を満たすためには、求めるのをやめる。 そうすれば、自然と感謝の心が芽生える。 感謝の心が湧いてくれば、心は自然と心は満たされる。 そんな気がします。

『鏡分金殿燭』(かがみはきんでんのしょくをわかつ)

お寺の行事などで、年中色んな方とお会いします。 有名なお寺で修行された方や、師僧が大変立派な方である人もおられます。 こう言った方のお話は、興味深く大変勉強になるものです。 でも、同じようでも全く聞きたくないおはなしをされる方がおられます。 「私は、どこどこの寺で … 誰々の元で修行して … 」 「〇〇寺の〇〇さんはダメだと私の師匠方が言っていた」 と言ったお話をされる方です。 自分を高く見せたいのか、大袈裟な話をしたり 他者を低く見せる様なお話をされます。 「もっとご自身の事(経験した事、感じた事)などを話してくれれば楽しいのにな」 そんな時にこんな禅語を思い出します。 『鏡分金殿燭』(かがみはきんでんのしょくをわかつ) という言葉があります。 鏡は、美しい宮殿や、装飾された燭台を写すけど、自分は鏡だとわかっていると言う意味だそうです。 立派な人の輪の中に居れば、まるで自分もそうなったかのように感じてしまう事があるかもしれない。 でもそれは全く違う かといって、反対に周りの人と自分を比べて卑屈になれ、と言うのではなく 自分は自分 それ以上でも、それ以下でも無い 「自分を知る」それが大切なのだと思います。

『回向返照』(えこうへんしょう)

【壁にぶつかる】   人はその人生の中で 幾度となく壁にぶつかる事になります。 多くの人は壁にぶつかった時 どうするべきか?という答えを自分の外に求めます。 それは、賢人に助言を求めたり 占い師に聴いてみたり(笑) 人の助言は時として的確な時もありますが 助言する人と助言を受ける人の生きた時代や環境そして経験などが違う為に、有効でない事も多いものです。 その助言は、貴方にとって、何の意味もない事がほとんど 禅の言葉に 『回向返照』(えこうへんしょう) という言葉があります。 『回向返照』は外に答えを求めるのではなく、自分の内面を見つめなさいと教えています。 自分はどうしたいのか? 自分の内なる声に耳を傾ける 自分は自分をどう評価するのか? 自分の人生なのだから、周りの目を気にしすぎることなく もっと自由にワガママになってもいいんです。 誰のものでも無い、自分の人生なのですから 自分はどうしたいのか? その声に素直に生きれば、人生はもっと素敵なものになります。 きっとなります。

『百華春至って 誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく)

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ブログや Facebook をしていると、「いいね」をたくさんの人から押してもらえると嬉しいものです。 押してもらうと嬉しいとなると、反対に押してもらえないと淋しくなるわけです(笑) ブログや Facebook に投稿する目的は、人それぞれ、投稿の内容によってもそれぞれです。 私が毎日書いている。 《自分に贈る禅の言葉》はホントに自分の為に書いてます。 落ち込んだ時、調子に乗っている時など、心が揺れている時に禅の言葉は、本質を教えてくれます。 禅の言葉に 『百華春至って 誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく) という言葉があります。 春になって花がいっぱいに咲きます。 それは誰のために咲いているのか?と自問しているのだそうです。 本当の答えはわかりません でも私はこう思います。 花は誰かのためになろうと思って咲いてはいない。 でもそこに咲いていることで、誰かのためになっている。 時にはそんな花のような存在でいたいな

『放下著』(ほうげじゃく)

先日、托鉢をしているお坊さんを見かけました。 その方は、全身つぎはぎだらけの法衣をまとい 商店街の各店の店先で般若心経を唱えて回られておられ ここまで、ものに対する執着と言う囚われから解き放たれたその姿は、何か尊さを感じました。 ところで、托鉢と言うのは、お坊さんの修行の一つですが、同時に喜捨(浄財を納める行為など)をする方の功徳を積む行為でもあります。 それなのにこんな事を言う人がいます。 「私が、喜捨したお金は、ちゃんとしたことに使って欲しい … 」 なるほどもっともな話のようですが 私はそこに人間の執着を感じてしまいます。 喜んで捨てたお金を、捨てた後も自分の思うように活かしたいと願う必要はありません。 捨てたことに意味があるのであって、捨てた後の事は心配しなくてもいいんです。 せっかく手放したのに もうそこに、ものは無いのに ワザワザその事に囚われる必要なんて無いんです。 似たような話で 私は、先日から断捨離をしております。 使わないものは場所もとるし、保管も大変なので捨てるか、リサイクルショップに買い取ってもらいます。 でも、リサイクルショップってほとんど値が付かないんですよね。 そうすると、「これは高かったのに … 」 ってガッカリしたり 「やっぱり売るのはやめます!」 なんて言って持って帰ったりする人もいると思います。 気持ちはわからなく無いんです。 買った時から大切に使ってきたわけですからね。 でも、なぜ断捨離したかったのか? よく考えれば、自分がスッキリした生活をしたかったから ものに囚われた生活から解放されたいからだったはずなのに(笑) かくいう私もリサイクルショップで 「あぁそんなもんなんだね~」なんて笑うしかありませんでした。 禅の言葉に 『放下著』(ほうげじゃく) と言う言葉があります。 「放下」とは手放す。捨てるという意味です。著は強調の助字。 何事にも執着せずに無心になりなさい。そうすれば人は囚われから解放される。そして悟りにたどり着く そしてその悟りすら手放して捨ててしまえと言う意味だそう...

『孤雲本無心』(こうんもとむしん)

「職場で、周りの人から仕事ができ無い人間として扱われていて、やり辛い」 遠くを見る目が寂しそうでした。 その方は、早期退職をして転職したばかり 「誰でもはじめは素人だし、誰でも失敗はあるもんですよ」とお伝えしましたが 「まぁね …… 」と沈黙 人はレッテルを貼られると、そのレッテルに近づいてしまう事がよくあると思います。 そのレッテルに囚われてしまうんですね。 その事を知っていて、意図的に人にレッテルを貼る様な ひどい人もいます。 レッテルと言うのは多くの場合 立場が上の人がつける。 だからタチが悪い この方の周りの人がそういう人かどうかは分かりませんが 禅の言葉に 『 孤雲本無心』(こうんもとむしん) があります。 青空に浮かぶ一片の雲は、何者にもとらわれたりしないと言う意味だそうです。 そんな雲の様になれたら どれほどの人が心救われるだろうか なかなか難しいだろう でも確かな事がある 「雲は誰からの評価も受けつけない」(笑) 自分の事を評価出来るのは自分だけ 他人に分かろうはずが無いのだから この方は、その後会社をお辞めになりました。 私は、その選択が正解だと思います。 人生は、もっとわがままでいいんです。 自分が笑顔で居られる場所を探せばいいと思います。

『巡照板』(じゅんしょうばん)

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私の住んでいる京田辺市は、一休寺(酬恩庵)があることで有名ですが、少し足を伸ばすと 隠元禅師開基『黄檗宗大本山萬福寺』があります。 私も、何度か足を運んだことがります。 ちなみに、あのいんげん豆を日本に伝えた方だそうです ✨ ちなみに、 木魚も隠元禅師が日本に伝えたそうです。 仏教そのものが中国から伝わったものですし、仏教とともにいろんな文化も伝わったんですね。 そんな萬福寺で興味を惹かれたのが 『巡照板』(じゅんしょうばん) この板を叩いて雲水(修行僧)たちに時間を伝えます 『巡照板』には下記の文字が書いてあり(写真は消えかかっていますが)雲水はこの言葉を唱えながら叩くのだそうです。 謹白大衆 生死事大 無情迅速 各宜醒覚 慎勿放逸 なんの意味かというと 謹んで大衆(修行者)に申し上ぐ。 生死は事大にして、 無常は迅速なり。 各々、覚醒して、無為に、時を過ごさぬように。 【周峰(shuhou)要約】 皆さんにお伝えします。 人間の生きる死ぬはもっとも重大な事です。 同時に時間は刻一刻と過ぎて行き、命も同じ様に過ぎて行く だからか、この事に気づいたならば、一刻も無駄に生きてはいけない という事 これは、決して修行僧の為だけの言葉では無いです。 この言葉、忘れないようにしたいですね。