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『長者長法身、短者短法身』(ちょうじゃちょうほっしん、たんじゃたんほっしん)

「人の倍働いて、人の倍の成績を出して、人の倍給料をもらってるようじゃ、ダメなんじゃない?」 衝撃でした 勤め人の頃、営業成績トップを取ったときに、当時の部長から言われた言葉です。 僕はてっきり褒められると思ってたときにこの言葉(笑) 確かに人の倍働いて、やっと人の倍の成績だと、すぐ限界がきます。 そう考えると部長の言葉ももっとです。 世の中には人と同じだけの仕事で、人の 3 倍以上の成績を出すスーパースターもいます。 今でも、そんなスーパースターの仕事のやり方をセミナーで学んできて、僕に教えてくれる友人がいます。 「こんな風にして仕事するんだって」って感じです。 すごいなぁ~とは思います。 でも自分で同じ事をしようとは思いません。 成績を上げる事が僕の人生の目的ではないし スーパースターに憧れもありません 禅の言葉に 『長者長法身、短者短法身』(ちょうじゃちょうほっしん、たんじゃたんほっしん) があります。 この言葉は、桜には桜の良さがあり、菊には菊の良さがあるという事を教えてくれます。 それぞれに個性がありますよね。 それに反して、桜の花びらを菊のように沢山の花びらにさせる事は出来ないし、菊の花に桜の木に咲けと言っても出来ない。 桜も菊も全く違う花だけど、それぞれに個性がある花を咲かしていてそれで良い 人も同じで、特徴(個性)があるから、魅力的なわけです。 それを無視して、桜に菊の真似をさせる事は出来ないし、その逆も然り 自分にあった自分らしい仕事のやり方で良いんだと思います。 も~とも~と特別な 🎶 オーンリーイワーン

『汝十二時に使われる 老僧は十二時を使い得たり』

いつも慌ただしくているのに、人にものを頼まれると引き受けちゃう 時間が空いていればスケジュールを入れてしまう 準備の時間や、自分の体や心を休める時間を勘定に入れずに頑張ってしまう そして、ストレス解消とばかりに、お酒を呑んだり、だらだらしたりしてしまう たまにはいいんでしょうけどね … 禅の言葉にこんな言葉があります。 『汝 十二時に 使われる 老僧は 十二時 を使い得たり』 唐時代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)と言う禅師の言葉です。 「時間に追われるような生き方をしてはいけない、時間を管理する事が大切だ」 と言う意味です。 時間に追われる。 これを『忙しい』と言います。 忙しいとは、立心偏に亡くす。 「心を亡くす」 時間を人生の一部だとすると なんとも味気ない 頑張ってる姿は美しい だけど頑張らなくてはいけないのは 自分が未熟だからだと反省します。 『自分を律する』のは難しい

『百華春至って 誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく)

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ブログや Facebook をしていると、「いいね」をたくさんの人から押してもらえると嬉しいものです。 押してもらうと嬉しいとなると、反対に押してもらえないと淋しくなるわけです(笑) ブログや Facebook に投稿する目的は、人それぞれ、投稿の内容によってもそれぞれです。 私が毎日書いている。 《自分に贈る禅の言葉》はホントに自分の為に書いてます。 落ち込んだ時、調子に乗っている時など、心が揺れている時に禅の言葉は、本質を教えてくれます。 禅の言葉に 『百華春至って   誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく) という言葉があります。 春になって花がいっぱいに咲きます。 それは誰のために咲いているのか?と自問しているのだそうです。 本当の答えはわかりません でも私はこう思います。 花は誰かのためになろうと思って咲いてはいない。 でもそこに咲いていることで、誰かのためになっている。 時にはそんな花のような存在でいたいな

『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり』

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今夜は『15夜 中秋の名月』です。 『秋は月』という言葉を思い出しました。 これは次の禅語の一節です。 『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり』 これは道元禅師が詠んだ有名な詠です。 ありのままの自然の姿を詠ったもの ありのまの姿は清々しい。これが真実なのだという事だと思います。 色んな解釈がされていますが 禅語はそれでいいと思います。 今の僕には、あるがままの自分の姿を受け入れる事が出来れば、心穏やかで健康的だと教えてくれます。 あるがままの自分を受け入れる事が出来ないと無理ばかりしてしまう 冬に海で泳ぐことはできないし、夏に桜の下で花見をする事も出来ないのに でも時にそういう事をしようとする。 そして心を傷つけて、どれも出来なくなる。 今日は15夜、中秋の名月だそうです。 月を眺めながら、ゆっくりと自分の気持ちに寄り添う時間になればいいですね。

『時時勤払拭』(じじにつとめてふっしきせよ)

毎朝トイレ掃除と、仏様への朝のお勤めが、我が家での僕の仕事となっています。 基本的には毎日するのですが 時にはできない日があります。 しかも重なる時もあります。 そんな時は、埃や汚れが溜まります。 禅の言葉に 『時時勤払拭』(じじにつとめてふっしきせよ) と言う言葉があります。 これは、心は精神は、塵や埃がたまりやすいから、常に磨いておかねばならないという意味です。 トイレ掃除と同じで、心の方も綺麗な状態を維持するには、毎日の少しづつの積み重ねが大切と言うことですね。 溜めると後で綺麗にするのに時間がかかります。 心に溜まる埃は、目に見えなので 知らず知らずのうちに埃まみれ、なんてことにもなりかねませんね。

『愛語』(あいご)

思い出の言葉 昔、母親が口にした言葉で今でも僕を勇気づけている言葉があります。 その言葉は、何十年も前に母がなんとなく言ってくれた言葉なんですが、僕にはこれ以上の言葉はまだ見当たりません。 それは 「どうしようもなくなったら家に帰ってきたらええやん」 母のその言葉で そだな。 やってもないのに不安になっても仕方ないし、ダメだったら帰ってこよう 僕には帰る場所がある そう思うと、心がスッと楽になりました。 今では何で悩んでたのかすら覚えていませんが、母のこの言葉は覚えています。 こんな禅語、と言うより仏教の教えですが 『愛語』(あいご)と言うものがあります。 相手を思いやる言葉 母親が子供に向けるような言葉の事です。 愛語は、人の心を癒したり、元気付けたり出来る言葉です。 正に母の 「どうしようもなくなったら家に帰ってきたらええやん」も、愛語です。 シンプルな言葉だけど忘れない 知らないところで自分を支えてくれている言葉です

『誰家無明月清風』(たがいえにか めいげつせいふうなからん)

すっかり涼しくなって、過ごしやすい夜 虫の鳴き声と月 秋です。 そしてこんな禅語 『誰家無明月清風』(たがいえにか めいげつせいふうなからん) どんな家にも月の明かりは届くし清々しい風も吹く どんな人にも仏性が有ると説いています。 どんなに悪い行いをした人間であっても、優しい人間でもあるって事だと思います。 どんなに人を傷付けてしまっても、別のところでは、とても優しい人でもある。 誰の心にも、良心が有ります。 そして皆その良心の声を聴いている

『一水四見』(いっすいしけん)

同じ‘‘水’’を見ても、見る者によってはそれぞれの捉え方があるという事。 物の捉え方は人それぞれに違い それで良い。 他人に自分と同じ様に物事を捉えて欲しいと願うのは無理がある。 かと言って、無理に他人と同じ様に捉えようとしても無理なんです。 違っていて当たり前 だから無理して合わせなくて良い

『冷暖自知』(れいだんじち)

最近はインターネットが便利で、何でも検索してしまいます。 そして何となく知識がついていたりします。 でも、その知識がしばしば邪魔になります。 それは、知っているが為に、行動しない 『どうせそんな事しても、こうこうなって、こうなるだけだろ』 『じゃ~やめとくか』 なんてね。 禅の言葉にこんな言葉があります。 『冷暖自知』れいだんじち 雪がどのくらい冷たいのかは、自分で触ってみないと分からないという意味です。 自分で経験をして、得られる情報は、全く違う世界を見せてくれる事があります。 時には自分の知識を疑ってみる事も必要なのかもしれません。

『窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず』(きゅうすればすなわちへんじ、へんずれば、すなわちつうず)

人が成長する時って 『ピンチ』を乗り越えた時です。 失敗して⇨自分でピンチを招く 自分以外の理由でピンチを招く事もある 禅の言葉に 『窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず』きゅうすればすなわちへんじ、へんずれば、すなわちつうず と言う言葉が有ります。 困難な壁にぶつかれば、本気で考える 本気で考えれば、その困難は乗り越えられる そう教えてくれます。 『ピンチは、成長のチャンス』 今日も素敵な 1 日を …

雨洗風磨(うせんふうま)

人生を生きて入れば多かれ少なかれ、辛い経験はあるものです。 好奇心旺盛で、何にでもチャレンジする人は 普通よりたくさんの失敗を経験しなければならなくなります。 禅の言葉に 雨洗風磨(うせんふうま) というのがあります。 雨や風にさらされることによって心が洗い清められ、磨かれるという意味だそうです。困難や苦難に立ち向かい、それでも前に進む事は、自分自身の大きな成長となると説いています。 安全な建物から一歩外に出れば、雨風にさらされます。 それは、苦難の道、できればさらされたくない でも一歩、動かなければ成長はない。

『随処作主 立処皆真』(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)

やってみたい! その気持ちに素直でいいんだと思う こんなことやったら、人にどう思われるか?なんてホントにつまらない考え方です。 失敗しないことが大人なら 大人に成るなんて全然かっこよくなんてない 失敗するから面白んだ!(笑) だけどいい加減になれって事じゃない 他人からどう思われるかで自分を評価してはダメだって事 もし、他人からどう思われるかを軸にして生きてたら、他人の人生を生きるってことになるからね。 他人の人生を生きるほどもったいない事はないと思います。 禅の言葉に 『随処作主 立処皆真』(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり) という言葉があります。 何ものにもとらわれることのない主体性を持っている。自分軸を持っているという事。 その様にあれば、何処にいても真実を見る事が出来ると言う事です。

『知足』(ちそく)

人はついつい、『あれもこれも」と欲が出ます。 本当は、もう足りているのに『もっともっと』と…… でも、求めれば求めるほど、満たされない それが良いとか悪いとかと言うことではなく 「ただ満たされることはない」 禅の言葉に 『知足』(ちそく)というものがあります。 足ることを知る者は、たとえ貧困であっても、ゆったりとして安らかですが、足ることを知らない者は、富裕であっても、心が貪欲に満ちて不安定な状態にあるという意味。 それは心もそうだと思います。 心を満たすためには、求めるのをやめる。 そうすれば、自然と感謝の心が芽生える。 感謝の心が湧いてくれば、心は自然と心は満たされる。 そんな気がします。

『忘筌』(ぼうせん)

僕は釣りが好きです。 大きい魚を釣り上げたときの感動が忘れられないまま 釣りのとりこになりました(笑) しかし最近困っているのが、道具です。 だんだん良いものが欲しくなる。 道具に凝ると切りがありません どんな趣味も同じようなところがあるのではないでしょうか 禅の言葉に 『忘筌』(ぼうせん)と読みます。 筌とは魚を捕る道具です。 魚を釣ったら道具のことは忘れなさいと言う意味です。 人は、得てして目的と手段を間違えてしまいます。 と言うのは、目的の為の手段なのに いつの間にか手段そのものが目的になってしまう 仏教においての経典は、釈迦の教えを学ぶための手段の一つ 「悟りを開けば、その経典すら忘れてしまいなさい」 というのが釈迦の教えです。 僕の場合、魚を釣りたいから道具があるのですが、道具を手入れしたり、揃えたりする事ばかりに時間やお金をかけています。 ちなみに僕か今まで釣り上げた大物は全て 3000 円の竿 でも、何万円もする竿も持ってます。 挙げ句の果てに、釣れなくてもこの高価な竿を持って海に立っているだけで満足しちゃってます。 『高価な竿を持ったとて、魚は釣れない』

わが心秋月に似たり 碧潭(へきたん)清くして皎潔(こうけつ)たり 物の比倫に堪うるなし、われをして如何が説かしめん

『我が成す事は、我のみぞ知る』 有名な言葉なのでご存知の方も多いかと思います。 坂本竜馬の言葉ですね。 自分で自分の事をしっかりとわかっているからこその言葉だと思います。 禅の言葉に わが心秋月に似たり 碧潭(へきたん)清くして皎潔(こうけつ)たり   物の比倫に堪うるなし、われをして如何が説かしめん  という言葉があります。 私の本当の心は、純粋で一点の曇りもなく澄み切った心。この心は自分自身にしか分からない そして誰に説明する事もできない。 と解釈します。 (禅では、この心をもう一人の自分と言う捉え方をしたりもするようです) つまり、誰にも説明出来ない純粋な澄み切った心は、自分にしか分からない。 この心の声に耳を傾け、この心に問う事で 進むべき道が見えてくるのだと教えてくれます。 進むべき道は、他の誰かに教えてもらう物ではなく、もう一人の純粋な自分との対話から見えてくるのかも知れませんね。

『啐啄同時 』(そったつどうじ)

仕事上、後輩や部下ができたりすると 『人を育てる』と言う意識が芽生え始めます。 しかし、これがなかなか難しい。 育てるより、自分がやった方がはるかに効率がいいし、そもそも、何をどう教えていいのかすらわからない 雑用ばかりやらせていたのでは、かわいそうだし、だからと言って重要な仕事を任せるのは、なんだか心配だし でも、次第に慣れてくれば、自分から仕事を見つけて始めるものです。 それが、早く訪れる人もいるし、遅い人もいます。 でも必ずその時期が来ます。 その時が仕事を教えるチャンスなんです。 禅の言葉に 『啐啄同時 』(そったつどうじ) 卵の中の雛が今まさに孵化しようとくちばしで殻を突く、これを啐と言います。 そしてその音を聞いて親鳥がすかさず外から突く、これを啄と言います。 啐啄同時とは、雛と親鳥の、くちばしの突くタイミングが寸分くるわずにあう事で殻が割れてこの世に生まれる姿を言い表しています。 親や師匠が子供や弟子の成長を見守り、絶妙のタイミングで気付きを与える事の重要性を言い表しているんですね。 タイミングを間違えてはせっかくのチャンスを失ってしまう せっかく暖めてきた卵を慌てて割ってもまだ時期で無ければ雛は生まれない かと言って永遠に暖めていても生まれない ここ 1 番のタイミングが大切なんですね。

『鏡分金殿燭』(かがみはきんでんのしょくをわかつ)

お寺の行事などで、年中色んな方とお会いします。 有名なお寺で修行された方や、師僧が大変立派な方である人もおられます。 こう言った方のお話は、興味深く大変勉強になるものです。 でも、同じようでも全く聞きたくないおはなしをされる方がおられます。 「私は、どこどこの寺で … 誰々の元で修行して … 」 「〇〇寺の〇〇さんはダメだと私の師匠方が言っていた」 と言ったお話をされる方です。 自分を高く見せたいのか、大袈裟な話をしたり 他者を低く見せる様なお話をされます。 「もっとご自身の事(経験した事、感じた事)などを話してくれれば楽しいのにな」 そんな時にこんな禅語を思い出します。 『鏡分金殿燭』(かがみはきんでんのしょくをわかつ) という言葉があります。 鏡は、美しい宮殿や、装飾された燭台を写すけど、自分は鏡だとわかっていると言う意味だそうです。 立派な人の輪の中に居れば、まるで自分もそうなったかのように感じてしまう事があるかもしれない。 でもそれは全く違う かといって、反対に周りの人と自分を比べて卑屈になれ、と言うのではなく 自分は自分 それ以上でも、それ以下でも無い 「自分を知る」それが大切なのだと思います。

『空即是色』(くうそくぜしき)

誰にでも毎日の日課というものがあるかとおもいます。 私の日課は、朝のトイレ掃除と、お勤め(読経)です。 トイレ掃除は、自分の心を掃除する為 お勤めはご先祖様や、生前にお世話になった方々への感謝の為 寝坊した時はサボりますが …… (笑) そのお勤めの中に般若心経があります。 般若心経はなかなか奥の深いお経で 仏教徒であれば宗派によらずこのお経が読まれるのではないでしょうか それだけ本質的な事が書いてあるんですね その般若心経には次のような一節があります。 『空即是色 』くうそくぜしき という言葉です。 禅語として用いられる事もあるようで 意味は 『空』とは実体がないこと 『即』とは対立する二つの現象が実は同一であること 『是』とはこれと言う意味です。 『色』とは物体や現象のこと 眼に映るものと捉える事もできると思います。 目に見える物体や現象は、見えるけど存在しない⁇ 僕はこの言葉を次のようにとらえています。 「そこに見える物や現象は自分の心が『今』という瞬間に映し出しているだけで、本来存在はしていない」 悲しい事がおきたのは、自分の心が現実世界に悲しい出来事を映し出した。 嬉しい事が起きたのも同じ そう考えると、自分に対して客観的になれます。 この世の中の全ては、今その瞬間にあるだけで、永遠には無い まさに『諸行無常』 悲しい事があっても 辛い思いがあっても それは今あなたがそう感じているだけ 本当はそんな物は存在しない だから何も心配しなくても … いいんです ✨ 不安な心はまた不安な現象を映し出す事になるだけだから 人生なんて一瞬の瞬き どうせなら、精一杯楽しく過ごしたいです

「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」

生まれながらに持っているややこしいもののひとつ ‘‘心’’ これはホントにややこしい(笑) 喜怒哀楽と勝手にコロコロ変わるし 知らん間に病気になるし 自分の‘‘心’’だけでも大変なのに 皆んなが持ってるもんだから 余計にややこしい(笑) ややこしいんです。 これに振り回されるなんてもう真っ平御免 付き合ってられません(笑) 禅の言葉に 「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」 沢庵禅師の言葉だそうです。 人はいっときの感情によって 本来の心が惑わされる。 本当の心を見失わないように いっときの感情には気をつけろ そう気付かせてくれます。 心の健康と自由を手に入れたいですね✨ わかっていても……ですけどね(笑)

『虚心坦懐』(きょしんたんかい)

心の栄養が足りなくなると なんだか、余計なことを考えてしまうことがありませんか? あの時、彼にかけた言葉はもしかしたら 彼を傷つけてしまったのでは無いか? もしかしたら、あの時のことを彼女は気にしているのでは無いか? もしそうだとしたら、彼(彼女)は私に対してどのような感情を持ったのだろうか? 「私は、彼(彼女)にどう思われているか?」 「決して良い感情を持っていないだろう」 きっと彼(彼女)は私のことを・・・ お互いの距離が近くなればなるほど いい意味でも、悪い意味でも、影響し合うのが人間です。 相手のことを大切に思うがために ありもしない、妄想を起こして 勝手に心を疲れさせてしまう 本当に、優しすぎです。 でもそこが、「いいところ」 禅の言葉にこんな言葉があります。 『虚心坦懐』(きょしんたんかい) 妄想や偏見、執着から離れありのままを素直に受け入れることのできる心の状態をさします。 次に、彼(彼女)に会う時は 『虚心坦懐』でいたいものです。 そのためには、次に会った時に、先にあやまりましょう 「もしかしたら、この間の言葉(態度)で、君を傷つけてしまったのではないかと気になっていたんだ。本当にごめんね」 そこから先は『虚心坦懐』 きっと心が楽になる