投稿

ラベル(謙虚に生きる)が付いた投稿を表示しています

『汝十二時に使われる 老僧は十二時を使い得たり』

いつも慌ただしくているのに、人にものを頼まれると引き受けちゃう 時間が空いていればスケジュールを入れてしまう 準備の時間や、自分の体や心を休める時間を勘定に入れずに頑張ってしまう そして、ストレス解消とばかりに、お酒を呑んだり、だらだらしたりしてしまう たまにはいいんでしょうけどね … 禅の言葉にこんな言葉があります。 『汝 十二時に 使われる 老僧は 十二時 を使い得たり』 唐時代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)と言う禅師の言葉です。 「時間に追われるような生き方をしてはいけない、時間を管理する事が大切だ」 と言う意味です。 時間に追われる。 これを『忙しい』と言います。 忙しいとは、立心偏に亡くす。 「心を亡くす」 時間を人生の一部だとすると なんとも味気ない 頑張ってる姿は美しい だけど頑張らなくてはいけないのは 自分が未熟だからだと反省します。 『自分を律する』のは難しい

『百華春至って 誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく)

イメージ
ブログや Facebook をしていると、「いいね」をたくさんの人から押してもらえると嬉しいものです。 押してもらうと嬉しいとなると、反対に押してもらえないと淋しくなるわけです(笑) ブログや Facebook に投稿する目的は、人それぞれ、投稿の内容によってもそれぞれです。 私が毎日書いている。 《自分に贈る禅の言葉》はホントに自分の為に書いてます。 落ち込んだ時、調子に乗っている時など、心が揺れている時に禅の言葉は、本質を教えてくれます。 禅の言葉に 『百華春至って   誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく) という言葉があります。 春になって花がいっぱいに咲きます。 それは誰のために咲いているのか?と自問しているのだそうです。 本当の答えはわかりません でも私はこう思います。 花は誰かのためになろうと思って咲いてはいない。 でもそこに咲いていることで、誰かのためになっている。 時にはそんな花のような存在でいたいな

『愛語』(あいご)

思い出の言葉 昔、母親が口にした言葉で今でも僕を勇気づけている言葉があります。 その言葉は、何十年も前に母がなんとなく言ってくれた言葉なんですが、僕にはこれ以上の言葉はまだ見当たりません。 それは 「どうしようもなくなったら家に帰ってきたらええやん」 母のその言葉で そだな。 やってもないのに不安になっても仕方ないし、ダメだったら帰ってこよう 僕には帰る場所がある そう思うと、心がスッと楽になりました。 今では何で悩んでたのかすら覚えていませんが、母のこの言葉は覚えています。 こんな禅語、と言うより仏教の教えですが 『愛語』(あいご)と言うものがあります。 相手を思いやる言葉 母親が子供に向けるような言葉の事です。 愛語は、人の心を癒したり、元気付けたり出来る言葉です。 正に母の 「どうしようもなくなったら家に帰ってきたらええやん」も、愛語です。 シンプルな言葉だけど忘れない 知らないところで自分を支えてくれている言葉です

『知足』(ちそく)

人はついつい、『あれもこれも」と欲が出ます。 本当は、もう足りているのに『もっともっと』と…… でも、求めれば求めるほど、満たされない それが良いとか悪いとかと言うことではなく 「ただ満たされることはない」 禅の言葉に 『知足』(ちそく)というものがあります。 足ることを知る者は、たとえ貧困であっても、ゆったりとして安らかですが、足ることを知らない者は、富裕であっても、心が貪欲に満ちて不安定な状態にあるという意味。 それは心もそうだと思います。 心を満たすためには、求めるのをやめる。 そうすれば、自然と感謝の心が芽生える。 感謝の心が湧いてくれば、心は自然と心は満たされる。 そんな気がします。

『忘筌』(ぼうせん)

僕は釣りが好きです。 大きい魚を釣り上げたときの感動が忘れられないまま 釣りのとりこになりました(笑) しかし最近困っているのが、道具です。 だんだん良いものが欲しくなる。 道具に凝ると切りがありません どんな趣味も同じようなところがあるのではないでしょうか 禅の言葉に 『忘筌』(ぼうせん)と読みます。 筌とは魚を捕る道具です。 魚を釣ったら道具のことは忘れなさいと言う意味です。 人は、得てして目的と手段を間違えてしまいます。 と言うのは、目的の為の手段なのに いつの間にか手段そのものが目的になってしまう 仏教においての経典は、釈迦の教えを学ぶための手段の一つ 「悟りを開けば、その経典すら忘れてしまいなさい」 というのが釈迦の教えです。 僕の場合、魚を釣りたいから道具があるのですが、道具を手入れしたり、揃えたりする事ばかりに時間やお金をかけています。 ちなみに僕か今まで釣り上げた大物は全て 3000 円の竿 でも、何万円もする竿も持ってます。 挙げ句の果てに、釣れなくてもこの高価な竿を持って海に立っているだけで満足しちゃってます。 『高価な竿を持ったとて、魚は釣れない』

『鏡分金殿燭』(かがみはきんでんのしょくをわかつ)

お寺の行事などで、年中色んな方とお会いします。 有名なお寺で修行された方や、師僧が大変立派な方である人もおられます。 こう言った方のお話は、興味深く大変勉強になるものです。 でも、同じようでも全く聞きたくないおはなしをされる方がおられます。 「私は、どこどこの寺で … 誰々の元で修行して … 」 「〇〇寺の〇〇さんはダメだと私の師匠方が言っていた」 と言ったお話をされる方です。 自分を高く見せたいのか、大袈裟な話をしたり 他者を低く見せる様なお話をされます。 「もっとご自身の事(経験した事、感じた事)などを話してくれれば楽しいのにな」 そんな時にこんな禅語を思い出します。 『鏡分金殿燭』(かがみはきんでんのしょくをわかつ) という言葉があります。 鏡は、美しい宮殿や、装飾された燭台を写すけど、自分は鏡だとわかっていると言う意味だそうです。 立派な人の輪の中に居れば、まるで自分もそうなったかのように感じてしまう事があるかもしれない。 でもそれは全く違う かといって、反対に周りの人と自分を比べて卑屈になれ、と言うのではなく 自分は自分 それ以上でも、それ以下でも無い 「自分を知る」それが大切なのだと思います。

『世の中に我れぞ悟ると自慢して 名利求むる人の多さよ』

「昔は、謙虚で真面目な思い遣りのある人だったのにね」 「いつの間にか変わったなぁ」 先日こんな会話を耳にしました。 こう言われる人は、人から『先生』と呼ばれてる人に多い気がします。 (この場合学校の先生じゃなくて、僧侶、政治家、士業の人ね) 禅の言葉に 『世の中に我れぞ悟ると自慢して 名利求むる人の多さよ』 という言葉があります。 一休さんの言葉です。 悟った人間だと自負しても、それを持って名利を求める者がいる。 そんな矛盾を嘆いたのだと思います。 そもそも、悟りを開いたものは名誉も利益も求めない 人は立場が上になったり、権力を持ったりすると、いつの間にか『名利』つまり名誉と利益を求めるようになる。 それは人間の弱さなのかもしれません。 また、人は自分の実力以上に力やお金を持つと自分を見失うものなのかもしれませんね。 誰にでも起こる事です。 あの人は変わってしまったなんて言われないように いつも謙虚に、初心を忘れないようにしたいと思います。

『我逢人』(がほうじん)

「火事になったら包丁を井戸に投げ込め!」 昔、富山の包丁職人さんに付いて仕事をさせていただいた時に、そう教えられました。 あまりにも印象深い話しだったので今でも時折思い出します。 昔から包丁職人の作業場には井戸と凄い勢いで火が燃えている炉があるそうです。 この火と水を巧みに操り硬い鉄を思いのままに形作り、鍛えて丈夫で切れ味のいい包丁に仕上げていくわけです。 そんな作業場では火事になる事もあるそうで そんな時は火消しが、威勢良く消すのかと思いきや 昔の火消しは、火を消すなんてコトは無いんですね。 燃えてる建物を壊して燃え広がらないようにするのが消化活動なんだそうです。 火事になったら包丁職人は黙って見ているわけではなく 作業場にある包丁を全て井戸に投げ込むのだそうです。 なんで??? って思うじゃ無いですか 理由は、鍛え上げた包丁が火事の熱で「焼戻し」(簡単に言うと熱が加わり、焼き鍛えた包丁がもろくなるんだそうです)してしまう事を防ぐ為だそうです。 この話しを聞いた時、井戸の中でキラキラと光る無数の包丁を想像して なんだか神秘的な印象を持ったことを今でも覚えいます。 そんな包丁職人さんがこんな禅語を教えてくれました。 『我逢人』(がほうじん) 人と会うことからすべてが始まる。 人と人との出逢いの尊さを表した言葉です。 曰く どんな人に会う時でも、初めて会う人は、自分の経験したコトの無い事を教えてくれるかもしれ無い。 若いとか、偉い人とか関係無いんだ その人は間違いなく師匠と呼ぶにふさわしいとの事 昔この事を聞いた時は 「なんの事?」とか思ってましたが 今はよくわかります。 「今の自分があるのはあの人のおかげ」 僕にはそう思える人が何人もいます。 「人生は人との出逢いで作られる」 だから、大切にしたいと思います。 一つ一つの出逢いを