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『楽は天堂にあらず、苦は地獄にあらず』

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随分前のことですが、息抜きの為に高見山へ樹氷を見に登っタコとがありました。 高見山は、関西のマッターホルンと呼ばれる山で、標高は 1 , 248.4m 。冬に霧氷や樹氷を見ることができる山として有名です。 雪山の登山はなかなかハードです。 特に樹氷が見られるのですから、とても激さむいのです 山頂は、手袋を脱ぐと指先が瞬く間に冷たくなり激しい痛みに襲われます。 しかし景色は最高です。 帰りは温泉に入ってあったまって帰ります。 まさに天国と地獄(笑) 禅の言葉に 『楽は天堂にあらず、苦は地獄にあらず』 と言う言葉があります。 楽は必ずしも天国にあるわけじゃない、苦しみだって地獄にしかしないわけじゃないって意味です。 心を許しあえる友、あるいは分かり合える家族と一緒にいる時は天国でなくても楽しいです。 逆に身近な人と、分かり合えない関係だと地獄に居なくても苦しいですよね。 いくら長い付き合いで、お互いの気持ちが繋がっていると思っていても …… 仲たがいしてしまうことは簡単な事です。 しかもそのほとんどは誤解なんでしょうけどね。 そうなったら本当に辛い だからこそ、自分の心に曇りがあってはならない 信じる心・感謝する心、つまりは素直な心が大切なのだと思うのです。

『至道難しきことなし 唯だ揀擇を嫌う』 (しどうむずかしきことなし ただけんじゃくをきらう)

【自分らしく生きる】 昔むかしの若い頃は 自分らしさとか、個性とかを求めていた 自分らしい選択 自分らしい働き方 自分らしい考え方 でも本当は何をもって「自分らしい」と言うのか?それすら分からなかったのに(笑) だけど、人生も少し長く続けて行くと 自然と「自分らしく」なるもので 今では、なんとなく 「自分らしく仕事をして」 「自分らしく人と付き合って」 「自分らしく生きている」気がします。 それは、もしかしたら、無い物ねだりをしなくなったからかもしれません。 無い物ねだりをしないと、今の自分が持っているものに目を向けることになる。 自分が持っているものを知れば、それを活かす事は、そんなに難しい事じゃない。 禅の言葉に 『至道難しきことなし 唯だ揀擇を嫌う』 (しどうむずかしきことなし ただけんじゃくをきらう) 至道とは、悟りに達する道 揀擇とは、選り好みすることだそうです。 悟りの道は難しいことは無いのだけど、選り好みしだすと、難しいことばかりになるという事 人は、選り好みする程いろんなものをもっていないけど選り好みする。 それが「無い物ねだりだ」 今ある物に目を向けて、感謝すると、その活かし方が分かるのではないだろうか? 僕はまだ全然できてないけど(笑) でも少なくとも「自分らしく」はできるようになってきた気がする。

『春枝頭に在ってすでに十分』(はるしとうにあってすでにじゅうぶん)

「お隣の芝生は青い」ということわざがあります。 本当によく見えるんですよね。 そんなのを見ると、僕も!私も! なんて、慣れないことを始める いろいろさまよってやっては見ますが、最後は本業が一番だって事になる。 仕事に限らず こんなことはよくあることです。 『春枝頭に在ってすでに十分』(はるしとうにあってすでにじゅうぶん) 春の訪れを感じようと、あちらこちらとさまよって見たが見つからず、くたびれて家に帰ると、庭の梅の木に花が咲いていた時の言葉だそうです。 春はすでにあったという事です。 幸せを探すのも同じですね あれやこれやと幸せになるために求めます。 でも、幸せは外に出向いて探してるうちは見つからない。 すでにあるものだと気がつくものだからです。 本来ある事に気付い事が大切だと教えてくれますね。

『魚行水濁鳥飛毛落』(うおゆけばみずにごりとりとべばけおつ)

「憂鬱な一日」 随分前の話ですが 何をやっても気分が乗らないという日がありました。 何かあったというわけでもないんですけど 年に 1 ・ 2 回程度そんな時があるんです。 ちょうどその日もそうでした。 そんな時に、前から 1 人の女性が、笑を噛み殺しながら嬉しそうに歩いてきたんです。 「あの人、よっぽどいいことがあったんだな」って思うと、少し楽しくなってきだんです。 そしたら、ひとりでに笑顔が溢れてきました。 笑顔になると、さっきまでの憂鬱感が消えはじめました。 人は幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになるといいますが、本当にそうですね。 笑顔でいてもそうでなくても 自分の行動が、人に影響を与えてしまうのだから、僕も笑顔でいよう! 僕の笑顔もきっと誰かの役に立ってるだろう。 そんなふうに思いました。 禅の言葉に 『魚行水濁鳥飛毛落』(うおゆけばみずにごりとりとべばけおつ) どんな澄んだ水でも、魚が泳げば水は濁るし、鳥が飛べば毛が落ちる。 人が生きて行けば、どれだけ気をつけていても、その痕跡が残るって言うことだそうです。 生きていれば、どんなに気を使っていても、誰かの心に跡を付ける事もある。 良くも悪くも、跡が付く 今日はいつもより、笑顔でいようと思います。

『汝十二時に使われる 老僧は十二時を使い得たり』

いつも慌ただしくているのに、人にものを頼まれると引き受けちゃう 時間が空いていればスケジュールを入れてしまう 準備の時間や、自分の体や心を休める時間を勘定に入れずに頑張ってしまう そして、ストレス解消とばかりに、お酒を呑んだり、だらだらしたりしてしまう たまにはいいんでしょうけどね … 禅の言葉にこんな言葉があります。 『汝 十二時に 使われる 老僧は 十二時 を使い得たり』 唐時代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)と言う禅師の言葉です。 「時間に追われるような生き方をしてはいけない、時間を管理する事が大切だ」 と言う意味です。 時間に追われる。 これを『忙しい』と言います。 忙しいとは、立心偏に亡くす。 「心を亡くす」 時間を人生の一部だとすると なんとも味気ない 頑張ってる姿は美しい だけど頑張らなくてはいけないのは 自分が未熟だからだと反省します。 『自分を律する』のは難しい

『百華春至って 誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく)

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ブログや Facebook をしていると、「いいね」をたくさんの人から押してもらえると嬉しいものです。 押してもらうと嬉しいとなると、反対に押してもらえないと淋しくなるわけです(笑) ブログや Facebook に投稿する目的は、人それぞれ、投稿の内容によってもそれぞれです。 私が毎日書いている。 《自分に贈る禅の言葉》はホントに自分の為に書いてます。 落ち込んだ時、調子に乗っている時など、心が揺れている時に禅の言葉は、本質を教えてくれます。 禅の言葉に 『百華春至って   誰がためにか開く』(ひゃっかはるいたって だれがためにかひらく) という言葉があります。 春になって花がいっぱいに咲きます。 それは誰のために咲いているのか?と自問しているのだそうです。 本当の答えはわかりません でも私はこう思います。 花は誰かのためになろうと思って咲いてはいない。 でもそこに咲いていることで、誰かのためになっている。 時にはそんな花のような存在でいたいな

『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり』

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今夜は『15夜 中秋の名月』です。 『秋は月』という言葉を思い出しました。 これは次の禅語の一節です。 『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり』 これは道元禅師が詠んだ有名な詠です。 ありのままの自然の姿を詠ったもの ありのまの姿は清々しい。これが真実なのだという事だと思います。 色んな解釈がされていますが 禅語はそれでいいと思います。 今の僕には、あるがままの自分の姿を受け入れる事が出来れば、心穏やかで健康的だと教えてくれます。 あるがままの自分を受け入れる事が出来ないと無理ばかりしてしまう 冬に海で泳ぐことはできないし、夏に桜の下で花見をする事も出来ないのに でも時にそういう事をしようとする。 そして心を傷つけて、どれも出来なくなる。 今日は15夜、中秋の名月だそうです。 月を眺めながら、ゆっくりと自分の気持ちに寄り添う時間になればいいですね。

『愛語』(あいご)

思い出の言葉 昔、母親が口にした言葉で今でも僕を勇気づけている言葉があります。 その言葉は、何十年も前に母がなんとなく言ってくれた言葉なんですが、僕にはこれ以上の言葉はまだ見当たりません。 それは 「どうしようもなくなったら家に帰ってきたらええやん」 母のその言葉で そだな。 やってもないのに不安になっても仕方ないし、ダメだったら帰ってこよう 僕には帰る場所がある そう思うと、心がスッと楽になりました。 今では何で悩んでたのかすら覚えていませんが、母のこの言葉は覚えています。 こんな禅語、と言うより仏教の教えですが 『愛語』(あいご)と言うものがあります。 相手を思いやる言葉 母親が子供に向けるような言葉の事です。 愛語は、人の心を癒したり、元気付けたり出来る言葉です。 正に母の 「どうしようもなくなったら家に帰ってきたらええやん」も、愛語です。 シンプルな言葉だけど忘れない 知らないところで自分を支えてくれている言葉です

『誰家無明月清風』(たがいえにか めいげつせいふうなからん)

すっかり涼しくなって、過ごしやすい夜 虫の鳴き声と月 秋です。 そしてこんな禅語 『誰家無明月清風』(たがいえにか めいげつせいふうなからん) どんな家にも月の明かりは届くし清々しい風も吹く どんな人にも仏性が有ると説いています。 どんなに悪い行いをした人間であっても、優しい人間でもあるって事だと思います。 どんなに人を傷付けてしまっても、別のところでは、とても優しい人でもある。 誰の心にも、良心が有ります。 そして皆その良心の声を聴いている

『一水四見』(いっすいしけん)

同じ‘‘水’’を見ても、見る者によってはそれぞれの捉え方があるという事。 物の捉え方は人それぞれに違い それで良い。 他人に自分と同じ様に物事を捉えて欲しいと願うのは無理がある。 かと言って、無理に他人と同じ様に捉えようとしても無理なんです。 違っていて当たり前 だから無理して合わせなくて良い

『随処作主 立処皆真』(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり)

やってみたい! その気持ちに素直でいいんだと思う こんなことやったら、人にどう思われるか?なんてホントにつまらない考え方です。 失敗しないことが大人なら 大人に成るなんて全然かっこよくなんてない 失敗するから面白んだ!(笑) だけどいい加減になれって事じゃない 他人からどう思われるかで自分を評価してはダメだって事 もし、他人からどう思われるかを軸にして生きてたら、他人の人生を生きるってことになるからね。 他人の人生を生きるほどもったいない事はないと思います。 禅の言葉に 『随処作主 立処皆真』(ずいしょにしゅとなれば りっしょみなしんなり) という言葉があります。 何ものにもとらわれることのない主体性を持っている。自分軸を持っているという事。 その様にあれば、何処にいても真実を見る事が出来ると言う事です。

『空即是色』(くうそくぜしき)

誰にでも毎日の日課というものがあるかとおもいます。 私の日課は、朝のトイレ掃除と、お勤め(読経)です。 トイレ掃除は、自分の心を掃除する為 お勤めはご先祖様や、生前にお世話になった方々への感謝の為 寝坊した時はサボりますが …… (笑) そのお勤めの中に般若心経があります。 般若心経はなかなか奥の深いお経で 仏教徒であれば宗派によらずこのお経が読まれるのではないでしょうか それだけ本質的な事が書いてあるんですね その般若心経には次のような一節があります。 『空即是色 』くうそくぜしき という言葉です。 禅語として用いられる事もあるようで 意味は 『空』とは実体がないこと 『即』とは対立する二つの現象が実は同一であること 『是』とはこれと言う意味です。 『色』とは物体や現象のこと 眼に映るものと捉える事もできると思います。 目に見える物体や現象は、見えるけど存在しない⁇ 僕はこの言葉を次のようにとらえています。 「そこに見える物や現象は自分の心が『今』という瞬間に映し出しているだけで、本来存在はしていない」 悲しい事がおきたのは、自分の心が現実世界に悲しい出来事を映し出した。 嬉しい事が起きたのも同じ そう考えると、自分に対して客観的になれます。 この世の中の全ては、今その瞬間にあるだけで、永遠には無い まさに『諸行無常』 悲しい事があっても 辛い思いがあっても それは今あなたがそう感じているだけ 本当はそんな物は存在しない だから何も心配しなくても … いいんです ✨ 不安な心はまた不安な現象を映し出す事になるだけだから 人生なんて一瞬の瞬き どうせなら、精一杯楽しく過ごしたいです

「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」

生まれながらに持っているややこしいもののひとつ ‘‘心’’ これはホントにややこしい(笑) 喜怒哀楽と勝手にコロコロ変わるし 知らん間に病気になるし 自分の‘‘心’’だけでも大変なのに 皆んなが持ってるもんだから 余計にややこしい(笑) ややこしいんです。 これに振り回されるなんてもう真っ平御免 付き合ってられません(笑) 禅の言葉に 「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」 沢庵禅師の言葉だそうです。 人はいっときの感情によって 本来の心が惑わされる。 本当の心を見失わないように いっときの感情には気をつけろ そう気付かせてくれます。 心の健康と自由を手に入れたいですね✨ わかっていても……ですけどね(笑)

『虚心坦懐』(きょしんたんかい)

心の栄養が足りなくなると なんだか、余計なことを考えてしまうことがありませんか? あの時、彼にかけた言葉はもしかしたら 彼を傷つけてしまったのでは無いか? もしかしたら、あの時のことを彼女は気にしているのでは無いか? もしそうだとしたら、彼(彼女)は私に対してどのような感情を持ったのだろうか? 「私は、彼(彼女)にどう思われているか?」 「決して良い感情を持っていないだろう」 きっと彼(彼女)は私のことを・・・ お互いの距離が近くなればなるほど いい意味でも、悪い意味でも、影響し合うのが人間です。 相手のことを大切に思うがために ありもしない、妄想を起こして 勝手に心を疲れさせてしまう 本当に、優しすぎです。 でもそこが、「いいところ」 禅の言葉にこんな言葉があります。 『虚心坦懐』(きょしんたんかい) 妄想や偏見、執着から離れありのままを素直に受け入れることのできる心の状態をさします。 次に、彼(彼女)に会う時は 『虚心坦懐』でいたいものです。 そのためには、次に会った時に、先にあやまりましょう 「もしかしたら、この間の言葉(態度)で、君を傷つけてしまったのではないかと気になっていたんだ。本当にごめんね」 そこから先は『虚心坦懐』 きっと心が楽になる

『回向返照』(えこうへんしょう)

【壁にぶつかる】   人はその人生の中で 幾度となく壁にぶつかる事になります。 多くの人は壁にぶつかった時 どうするべきか?という答えを自分の外に求めます。 それは、賢人に助言を求めたり 占い師に聴いてみたり(笑) 人の助言は時として的確な時もありますが 助言する人と助言を受ける人の生きた時代や環境そして経験などが違う為に、有効でない事も多いものです。 その助言は、貴方にとって、何の意味もない事がほとんど 禅の言葉に 『回向返照』(えこうへんしょう) という言葉があります。 『回向返照』は外に答えを求めるのではなく、自分の内面を見つめなさいと教えています。 自分はどうしたいのか? 自分の内なる声に耳を傾ける 自分は自分をどう評価するのか? 自分の人生なのだから、周りの目を気にしすぎることなく もっと自由にワガママになってもいいんです。 誰のものでも無い、自分の人生なのですから 自分はどうしたいのか? その声に素直に生きれば、人生はもっと素敵なものになります。 きっとなります。

『放下著』(ほうげじゃく)

先日、托鉢をしているお坊さんを見かけました。 その方は、全身つぎはぎだらけの法衣をまとい 商店街の各店の店先で般若心経を唱えて回られておられ ここまで、ものに対する執着と言う囚われから解き放たれたその姿は、何か尊さを感じました。 ところで、托鉢と言うのは、お坊さんの修行の一つですが、同時に喜捨(浄財を納める行為など)をする方の功徳を積む行為でもあります。 それなのにこんな事を言う人がいます。 「私が、喜捨したお金は、ちゃんとしたことに使って欲しい … 」 なるほどもっともな話のようですが 私はそこに人間の執着を感じてしまいます。 喜んで捨てたお金を、捨てた後も自分の思うように活かしたいと願う必要はありません。 捨てたことに意味があるのであって、捨てた後の事は心配しなくてもいいんです。 せっかく手放したのに もうそこに、ものは無いのに ワザワザその事に囚われる必要なんて無いんです。 似たような話で 私は、先日から断捨離をしております。 使わないものは場所もとるし、保管も大変なので捨てるか、リサイクルショップに買い取ってもらいます。 でも、リサイクルショップってほとんど値が付かないんですよね。 そうすると、「これは高かったのに … 」 ってガッカリしたり 「やっぱり売るのはやめます!」 なんて言って持って帰ったりする人もいると思います。 気持ちはわからなく無いんです。 買った時から大切に使ってきたわけですからね。 でも、なぜ断捨離したかったのか? よく考えれば、自分がスッキリした生活をしたかったから ものに囚われた生活から解放されたいからだったはずなのに(笑) かくいう私もリサイクルショップで 「あぁそんなもんなんだね~」なんて笑うしかありませんでした。 禅の言葉に 『放下著』(ほうげじゃく) と言う言葉があります。 「放下」とは手放す。捨てるという意味です。著は強調の助字。 何事にも執着せずに無心になりなさい。そうすれば人は囚われから解放される。そして悟りにたどり着く そしてその悟りすら手放して捨ててしまえと言う意味だそう...

『孤雲本無心』(こうんもとむしん)

「職場で、周りの人から仕事ができ無い人間として扱われていて、やり辛い」 遠くを見る目が寂しそうでした。 その方は、早期退職をして転職したばかり 「誰でもはじめは素人だし、誰でも失敗はあるもんですよ」とお伝えしましたが 「まぁね …… 」と沈黙 人はレッテルを貼られると、そのレッテルに近づいてしまう事がよくあると思います。 そのレッテルに囚われてしまうんですね。 その事を知っていて、意図的に人にレッテルを貼る様な ひどい人もいます。 レッテルと言うのは多くの場合 立場が上の人がつける。 だからタチが悪い この方の周りの人がそういう人かどうかは分かりませんが 禅の言葉に 『 孤雲本無心』(こうんもとむしん) があります。 青空に浮かぶ一片の雲は、何者にもとらわれたりしないと言う意味だそうです。 そんな雲の様になれたら どれほどの人が心救われるだろうか なかなか難しいだろう でも確かな事がある 「雲は誰からの評価も受けつけない」(笑) 自分の事を評価出来るのは自分だけ 他人に分かろうはずが無いのだから この方は、その後会社をお辞めになりました。 私は、その選択が正解だと思います。 人生は、もっとわがままでいいんです。 自分が笑顔で居られる場所を探せばいいと思います。

『擔枷帯鎖』(たんかたいさ)

最近『断捨離』という言葉をよく耳にします。 私自身も、ちょくちょくとものを捨てたり リサイクルショップに引き取ってもらったり かなりスッキリすると同時に よくもまぁ、似たよなもの、使わないものを取ってたものだと 驚きます。 知らず知らずのうちに手にしていたんですね。 これと同じようなことが、心の中でも起こっています。 表現するなら いつの間にかいろんなところから鎖を引っ張ってきては自分の手や足に繋いで … 自分で動けなくなって、苦しいと言う状態 生きていれば、いつの間にか鎖でがんじからめになっているなんて事は、誰にでもある事 禅の言葉にこんな言葉があります。 『擔枷帯鎖』(たんかたいさ) 煩悩妄想に縛られた人間の姿 枷や鎖によって、がんじがらめになってしまったさま。それは、たくさんの煩悩や妄想、そしてそれに伴う不安や苦痛によって縛り付けられ、自らを苦しみの淵に追いやっている姿なんです。 気がつけば、そんな事になっている事ありますよね。 優しい人に多いのかもしれ無い。 たまにはゆっくりと、心の断捨離をしたいと思います。

『有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み雨ふらばふれ 風ふかば吹け』

「一休さん」の言葉にこんな言葉があります。 『有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)へ帰る一休み雨ふらばふれ 風ふかば吹け』 一休さんの名前のきっかけになった言葉です。 有漏路は、迷い、囚われている姿 無漏路は、悟りの姿 人は本来仏性を持って生まれて来るのだから悟りの世界にいた。 しかしこの世に生まれて迷い囚われる。 そして本来ある無漏路へ帰る途中(輪廻)の休憩が今だ。 そんな一瞬の今世、雨風が吹いてもそれもまた一瞬の出来事。 大したことはない、という意味だそうです。 「辛い時間も永遠には続かない」 だから、そんなに悩まなくてもいい また「この世にいる人間は、みんな有漏路を生きている」 だから、あなたと、大して変わりない(笑) そんな風に受け取ってます。

『名利共休』(みょうりともにきゅうす)

前々から凄く惹かれる禅語があります。 『名利共休』(みょうりともにきゅうす) 名とは、名誉名声 利とは、利益この場合金銭的な財産 休とは、止める。断ち切る。 という意味なんです。 この言葉を見て、千利休の名前の由来なのかな?って思ったのがきっかけなんですが 利休の名前の由来なのかどうかは分からません。   なぜかこの言葉に惹かれました 少し前までは私も 成功したい、人から羨ましいと思われたい いい車に乗りたい、いい時計が欲しい、海外旅行に行きたい そんなことを考えていました。 その頃って、しんどかったんですよね。 無理しなくてはいけないし、我慢しなくてはいけないし 「自分はまだまだだ」というように 自分を受け入れることができていない状態でした。 今は『名利共休』の意味がとてもよくわかります。 名誉名声を求めれば、本当にやりたいことができない お金に執着すれば、本質を見失うこともある そんなことを、一旦止めて考えたら 本当に必要なことが残る そういう意味だと捉えています。 『名利共休』とても楽な生き方だと思います。